Impressions
<書籍紹介>
「研究以前のモンダイ 看護研究で迷わないための超入門講座」
西條 剛央著 医学書院
『看護』という文字から少し敬遠してしまいそうになりますが、構造構成主義に関してわかりやすく書かれています。研究法などの手法が書かれている書籍は数多見られますが、この本は研究をするにあたっての基盤(方法とは何か、科学とは何か、認識論など)について書かれています。
リハビリテーションの手技・手法に置き換えて読んで見ると、手技や手法について学ぶことは大事ですが、その基盤の問題点の捉え方、アプローチの方法を選択できる自分の知力(認識や思考法など)に関しても同様に学ぶ必要性が感じさせられました。
(子どもの発達・学習を支援するリハビリテーション研究所 羽野)
<書籍紹介>「動作の意味論 ー歩きながら考えるー」長崎 浩著 雲母書房
昔、読んだ時にはあまり心に留まらなかったのですが(意味理解が不十分だったのでしょう)先日、急に思い出して読んでみたら、以前とは全く異なる別の本のように感じられました。
運動というものをどう考えるか、どう捉えるか、豊かな視座を与えてくれる一冊だと思います。サブタイトルにもあるように”歩きながら歩く事を考える”という至難を実践する難しさ。身に沁みて人間の運動とは?・・・今更ながら考えさせられます。
(安藤)
<書籍紹介>
失語症の研究から言語を考察し、運動性失語とは?感覚性失語とは?ということを神経心理学的側面と脳機能とを織り交ぜながら内容が展開され、最後の方には左右の半球含めた言語や意識とは何かといったことまで触れられています。
(福岡リハビリテーション専門学校 柿原)
<書籍紹介>
小林秀雄と岡潔の対談です。あるピカソの絵画を引き芸術論を展開させながら始まる対談ですが、終始一貫して、その根底には市井の日常における「人間の知」が垣間見えるような内容です。難解で私の理解の範囲を超える部分が多いこの対談ですが、読み終わった後、妙に落ち着くのは不思議な感覚です。
<書籍紹介>
言語機能を失語症の歴史的研究の経緯から振り返り、失語症の定義の考え方や脳機能障害の知見から考えられる言語機能の解釈を専門的に書かれてあります。難解な部分もありますが言語に関する脳のシステムの意味も書かれてあり、言語に興味のある方にはお勧めです。
原病院 柿原
『脳とことば』 岩田 誠著 共立出版
<書籍紹介>
アンドリュー・ニューバーグらの著書です。5〜6年ほど前に読みましたが、とても興味深く一気に読んだ事を記憶しています。サブタイトルが”宗教体験のブレインサイエンス”です。「宗教」を考える際の、また、人は何故に宗教に寄り添うのか?という疑問へのヒントのひとつではないか?と思えます。
<書籍紹介>
「身体論集成」岩波現代新書 文庫
市川 浩(著) 中村雄二郎(編集)
哲学的な視座から身体論を展開しています。
難解ですが一読に値します。
● 視神経交叉から考えた事
ヒトの視神経交叉は半交叉である。交叉率が半分だからである。ネズミでは90%交叉、鳥類以下では全交叉する。カエルはオタマジャクシ時期には全交叉、成長してカエルになれば半交叉?するらしい。(これは不思議です!!)
この視神経交叉という語句の意味ですが、視神経束が物理的に交叉している事を意味するのではなく、視神経の線維連絡と左右半球との機能的な関係を指すのであって、事実、魚類などは「交叉」せず、左右の視神経は独立して反対側に投射している。
そもそも、視神経交叉は左右の眼球位置が大きく関与しているらしい。ヒトのように顔面の中程に左右眼球が位置する場合と魚類のように左右にはっきりと分かれるものとでは、結果、交叉の程度が異なる。
即ち、ヒトでは両眼視をしているし、魚類では左右で別々のものを見ているということに起因するのでしょう。
個人的な疑問からですが、視神経交叉と系統発生との関連が何故に気になったかと言うと、そもそも何故に、錐体交叉があるのだろうか?という事に端を発しています。ヒトの場合、延髄レベルで錐体交叉してますが、勿論ですが血管は交叉などしていません。外胚葉の発達過程で何故に交叉したのか?どう考えても効率的ではないように思えます。
私は視神経交叉が錐体交叉の引き金になったような気がしています。つまり、もし、眼球が一つだったら、あるいは両眼が上下に位置していたら恐らく錐体交叉は生じなかったのでは?と思います。脊索動物が眼を持った時とほぼ同じくして、錐体交叉が起こったのでは?と感じています。神経が交叉するという引き金に目の存在が大きく関与していると思っていますが、如何でしょうか?御意見を待ってます。
● 古典的失語図式
# matsumotoさんからのBBSへの投稿文をImpressionsに掲載しました。
この内容は重要な示唆や提言を含んでいると思います。
個人的にも以前からとても「気になっていること」の一つです。
所謂、”失語”という概念、それ自体の再考も含めて”言語”というものを考える重要性があると
思います。皆さんからの御意見など、ディスカッションしたいと思います。
ncr_fukuoka@yahoo.co.jp 、BBSでも投稿、受け付けています。
以下、本文です。
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意見というより相談に近いのかもしれません。
最近少しわからなくなったことがあります。それは『 言語 』についてです。
臨床の中で言語・ことばの機能に何らかの問題を呈している方と接しながら日々混乱しながらも体当たりで立ち向かっています。
自分的には、自分(自己)とそれ以外の何かを繋ぐもののひとつとして『 言語 』が存在するように思えます。
養成校で学んだ古典論的立場からの失語図式(Wernicke – Lichtheim 1884)は“概念中枢”を頂点として“運動言語中枢”“聴覚言語中枢”の三角形…、これは7つの障害分類を一目瞭然とばかりにこの図式にしたのでしょう か?それとも言語・ことばのもつ意味や本質的なことを伝えるためにあえて“概念中枢”を高位の位置に、言語“聴覚”を下位の位置に持ってきているのでしょうか?
● 盲目のピアニスト
盲目のピアニスト、辻井伸行さんのヴァン・クライヴァーンでの快挙はもうご存知だと思います。
今までの彼自身は勿論のこと、彼をサポートする人達の努力は想像を絶します。
これからも間違いなく、更なる活躍をされることだと思います。
そこで彼やスティーヴィーワンダーのような盲目の方を見ていると、体幹や頚部をリズミカルにまるで踊っているかのように、揺れるように動いている事に気付きます。どうしてでしょうか?どなたかご意見を。